「十牛図」の版間の差分

提供:onayami
4行目: 4行目:
=== 構成 ===
=== 構成 ===
十牛図は、一連の絵画で構成されており、次のような段階が描かれています。
十牛図は、一連の絵画で構成されており、次のような段階が描かれています。
# **尋牛**: 修行者が牛を探し始める段階を表します。この段階では、人々は真理や自己の本質を求めて探求の旅に出ます。
# 尋牛 - [[仏性]]の象徴である牛を見つけようと[[発心]]したが、牛は見つからないという状況<ref name="kageyama" />。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、[[分別 (仏教)|分別]]の世界に陥って仏性から遠ざかる<ref name="kageyama" />。
# **得牛**: 修行者が牛を見つける段階を表します。この段階では、真理や自己の本質を理解し、それに気づくことができます。
# 見跡 - [[経典|経]]や教えによって仏性を求めようとするが、[[分別 (仏教)|分別]]の世界からはまだ逃れられない<ref name="kageyama" />。
# **乘牛**: 修行者が牛に乗る段階を表します。この段階では、修行者は真理や自己の本質と一体化し、それを体験します。
# 見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位<ref name="ueyana39">[[#ueyana 1992|上田、柳田・1992年]] 39頁</ref>。
# **遠牛**: 修行者が牛を遠ざける段階を表します。この段階では、修行者は真理や自己の本質から離れ、世俗的な世界に戻ることを意味します。
# 得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます<ref name="kageyama" />。
# **返牛**: 修行者が牛を家に連れ戻す段階を表します。この段階では、修行者は再び真理や自己の本質を求め、内面の探求に戻ります。
# 牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要<ref name="kageyama" />。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる<ref name="kageyama" />。
# **入牛**: 修行者が牛と一体化する段階を表します。この段階では、修行者は自己と宇宙の一体性を体験します。
# 騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない<ref name="kageyama" />。
# **隠跡**: 牛が隠れる段階を表します。この段階では、真理や自己の本質は、言葉や概念では捉えられない存在として理解されます。
# 忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる<ref name="kageyama" />。
# **復牛**: 修行者が再び牛を見つける段階を表します。この段階では、修行者は再び真理や自己の本質を見出し、それを追求します。
# 人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる<ref name="kageyama" />。忘れるということもなくなる世界<ref name="kageyama" />。
# **舎利**: 修行者が牛の骨を手に入れる段階を表します。この段階では、修行者は真理や自己の本質を完全に理解し、それを実践します。
# 返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る<ref name="kageyama" />。
# **入市**: 修行者が牛の骨を市場に持ち込む段階を表します。この段階では、修行者は真理や自己の本質を他者と共有し、教えを広めます。
# 入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益<ref name="kageyama" />。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある<ref name="kageyama" />。


=== 意義 ===
=== 意義 ===

2024年6月17日 (月) 11:42時点における版

十牛図

十牛図(じゅうぎょず)は、禅宗の教えを表現した絵画であり、禅の修行過程を象徴的に描いたものです。この図は、中国の禅僧である雲門宗密(うんもん そうみつ)によって詠われ、後に日本の禅僧でもある承堯(じょうよう)によって絵画化されました。十牛図は、修行者の心の旅を象徴的に表現し、禅の教えを理解し、実践するための手引きとして用いられます。

構成

十牛図は、一連の絵画で構成されており、次のような段階が描かれています。

  1. 尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況[1]。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる[1]
  2. 見跡 - や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない[1]
  3. 見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位[2]
  4. 得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます[1]
  5. 牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要[1]。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる[1]
  6. 騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない[1]
  7. 忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる[1]
  8. 人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる[1]。忘れるということもなくなる世界[1]
  9. 返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る[1]
  10. 入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益[1]。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある[1]

意義

十牛図は、修行者の心の旅を通じて禅の教えを表現し、修行者が真理や自己の本質を理解し、それを実践するための道筋を示します。修行者は、真理や自己の本質を追求し、それを体験する過程で、自己の成長や変化を経験します。十牛図は、禅の教えを理解し、実践するための指針として、修行者にとって有益な手引きとなります。

関連項目

参考文献

  • Sekida, K. (1985). Zen Training: Methods and Philosophy. Shambhala Publications.
  • Humphreys, C. (2013). The Wisdom of Zen. CreateSpace Independent Publishing Platform.

参考

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「kageyama」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. 上田、柳田・1992年 39頁